2008/04/28
ピクシー
ピクシーことドラガン ストイコビッチ.
僕のなかでピクシーの認識が変わったのは,
中学3年のときに雑誌 Number のピクシーの特集記事を読んでから.
残念ながらその雑誌はもう手元にないけれど,その記事で
92年のユーロの予選を突破していたにもかかわらず,
ユーゴスラビア内戦による制裁のせいで直前で
出場が取り消されてしまったこと,
94年のアメリカワールドカップの予選にも出場できなかったことを知った.
92年のユーロの決勝は,ちょうどテレビで見ていた記憶がある.
そのときは,ドイツがデンマークに負けて残念,
くらいにしか思ってなかったけど,
デンマークは出場を取り消されたユーゴスラビアのかわりだったと
いうことを知ったときはある意味衝撃的だった.
ユーゴスラビアは,FIFAの制裁によって表舞台から姿を消した.
そんな中ピクシーは名古屋にやってきた.
絶望の淵で,半分投げやりな気持ちで極東にやってきたのかもしれない.
最初は,チームにフィットしていなかったらしい.
テレビで,よくカードをもらう外国人選手,
のような紹介をされていた記憶がある.
それでも,ピクシーの輝きは徐々に増していった.
僕が中学3年のとき,ユーゴスラビアはまだ不安定だった.
どちらかというと,紛争が再発した,という感じだったかもしれない.
高校入試の面接で,最近の気になるニュースは何か,
という質問をされたとき,僕はユーゴスラビア情勢を挙げた.
FIFAがまたユーゴスラビアに制裁を科すのでは,
といううわさがあったから.
幸い,FIFAによる制裁は行われず,
ユーゴスラビアは98年のワールドカップに出場した.
ピクシーはキャプテンとしてユーゴスラビアのベスト16に進出に貢献.
(オランダ戦でミヤトビッチがPKをはずしていなければ,あるいは..)
世界のトップレベルのプレーヤーが,
Jリーグでプレーしているというのが嬉かった.
Jリーグでも,その存在感は大きかった.
結局念願のリーグ優勝はならなかったけど,
2000年の天皇杯決勝でのゴールは圧巻だった.
そして,ピクシーは名古屋でプレイヤーとしての最後を迎えた.
名古屋でプレーしている間に
おそらくヨーロッパのクラブからオファーはあっただろう.
それでも,彼は最後まで名古屋でプレーすることを選んでくれた.
僕は,そんな名古屋が少し羨ましかった.
現役引退後,彼は故郷に帰った.
母国のサッカー協会の会長に就任.
その後,かつて在籍したレッドスターの会長に就任.
2008年,ピクシーは日本に帰ってきた.
名古屋グランパスの監督として.
初戦は引き分けたものの,その後6連勝,首位に躍り出る.
昨日は,決して強くはない東京ヴェルディに0-2の敗戦.
それでも鹿島が引き分けたおかげで,首位はキープ.
今年の名古屋はここ数年とは違う.
その中心にピクシーがいる.
彼なら,何かやってくれる,そんな気がする.
引退するピクシーへのメッセージ・・敬意を込めて・・(2001年9月) 湯浅健二
ラベル:
サッカー
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿